
長生きって本当に幸せ?
「長生きは素晴らしいこと」──かつてはそう信じて疑わなかった価値観が、今、少しずつ揺らいでいます。
- 認知症や介護
- 孤独死
- 年金問題
- 医療や介護費の不安など・・

そんな時代に生きる私たちは、ふと立ち止まって考えてしまうのです。
私自身、そんな不安に襲われた一人です。
身近な家族の介護を経験し、認知症の進行を目の当たりにして、心のどこかで思ってしまいました。

75歳くらいで、ぽっくり逝けたらどんなに楽だろう?
もっと言えば、それが「75歳」なのか「70歳」なのかは、人それぞれなのだと思います。
それは体調や環境、価値観だけでなく、子どもの年齢や独立の時期、自分がやり切った!と思える人生の節目にもよるのかもしれません。
私の場合、「20年後」と考えたときに、75歳という数字が一番しっくりきました。
それは、人生のちょうどいい区切りのような気がしたからです。
「死にたいわけじゃない」けれど、未来が怖い

誤解のないように言いたいのですが、私は決して死にたいわけではありません。
日々を楽しむこともあるし、まだやりたいこともある。
でも、歳を重ねることに対する漠然とした不安は、年々強くなっています。
特に、認知症への恐れ──自分が自分でなくなる恐怖、判断力を失って迷惑をかけるかもしれないという後ろめたさ。
そして何より、子どもや家族に介護の重荷を背負わせることへの罪悪感。
また、こんな感覚を持ってしまうこともあります。
認知症の高齢者と接していると、自分の時間や心の余裕、生活のリズムなど、何かを少しずつ奪われていくような感覚になることがあるのです。
もちろん、すべてのケースがそうとは限らないし、誰かを責めたいわけではありません。
でも、現実として、介護する側の心がすり減っていくのを、自分自身が実感しているのです。
だからこそ、親の姿を見ながらこう思ってしまうのです。

あんなふうになる前に、自分はきれいに散りたい・・
ネガティブな気持ちは、心の奥にある「本音」

- 長生きしたくない
- 75歳で死にたい
- ぽっくり逝きたい
そんな検索ワードを打ち込んだことのある人は、きっと少なくないはずです。
公式サイトや医療機関の情報では、正しい知識や制度の説明はあっても、こうした心のドロドロに寄り添ってくれる場はほとんどありません。
けれど、それこそが人間らしい感情なのではないでしょうか?
私は、そうした本音に耳を傾けながら、寄り添うブログをつくりたいと思いました。
きれいごとではなく、ありのままの気持ちを共有できる場所。
「自分の最期」を想像することから始めた終活

私はある日、「自分が死ぬ時、どうありたいか?」と真剣に考えてみました。
その問いの先に、終活という言葉が自然と浮かんできたのです。
終活というと「遺言を書く」「モノを片付ける」といった実務的な作業を思い浮かべるかもしれません。
でも私にとっての終活は、もっと心の準備に近いものでした。
- 延命治療を望むのか?
- 認知症になった時、どうしてほしいか?
- 葬儀はシンプルに?海洋散骨や樹木葬もあり?
- デジタル遺品、ブログやSNSはどう扱ってほしい?
- やりたいと思いながら、まだしてないことは?

それらを書き出すうちに、自分の気持ちが整理されていくのを感じました。
あと20年なんだから、と考えるとその間に何かをやってみようというマインドに繋がったのです。
「死ぬ準備」ではなく、「安心して生きる準備」

私は、終活は死ぬための準備だとは思っていません。
先の見えない不安に押しつぶされそうなとき、少しでも手綱を自分の手に取り戻せる。

選択肢の内容を理解して、自分の意思で決めておく
その実感が、静かな希望をもたらしてくれます。
完璧な準備はできなくてもいい。
思い描いた通りの最期なんて、ほとんど奇跡だとしても。
それでも、自分の意思を言葉にしておくこと、心を整えておくことは、とても大きな意味があると思うのです。
最後に:あなたの「心の声」に、終活という選択肢を

もし今、「75歳で死ねたらいいのに」と思ってしまっているなら、その気持ちを無理に打ち消さなくて大丈夫です。
それは、未来への不安や、誰かを思う優しさから生まれた心の声かもしれないから。
終活は、そんなあなたの本音にそっと寄り添ってくれる手段です。
どうか、前向きな気持ちになれた時に始めるものだなんて思わないでください。
不安だからこそ、動いてみてもいい。
あなたの心にフィットする形の終活を、これから一緒に見つけていけたら──。
私は、そんな場所をこのブログでつくっていきたいと思っています。



